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科学と芸術に於ける主観と客観

  • 2010/11/01(月) 17:34:56

科学が客観的な営みであるのに対して、芸術は主観的な営みであるというのが世に広く連なる通念であると思うが、客観と主観の対立軸で捉えるよりは、むしろ普遍性と固有性、再現性と一回性の軸で捉えていった方が両者の本質を捉えられるのではないかと思う。

科学の営みも、芸術の営みも、大雑把なことを言えば
(1)表現すべき対象の選択 
(2)それを表現する手段の選択 
(3)表現の遂行
の3段階に分けられる。このうち、(1)表現すべき対象の選択と(2)表現手段の選択には科学者、芸術家の主観がおおいに現れ、(3)表現の遂行に関しては、客観写生を心がけるのが良いのは、以前に「自身の感情は内に籠めて露にはせず、しかしその感情を喚起した花鳥風月を、どこまでも客観的に表現していくのが俳句である」と書いたとおりである。この意味で言うと、科学も芸術も、程度の差こそあれ、ある段階では主観的であり、またある段階では客観的である。

それでは何故、科学は客観の、芸術は主観の業と呼ばれるのかと言えば、表現対象の選択におよんで、科学では普遍性を備えた事象を、芸術では固有性を備えた現象を対象にすることが多く、その普遍性が客観性へと、固有性が主観性へと結びつきやすいことが原因だと思われる。しかし、実際には、普遍性と固有性とは言わばネガとポジのような関係であり、そのどちらに惹かれようとも、それは等しく主観的な問題であると言える。日々流転しゆく森羅万象、そのどれもが各々独自の成り立ちによって、全く無関係でいることも有り得るのに、しかしあるところで起きた現象が、また他のあるところで生ずる、そこには厳然たる普遍性が影を潜めており、その普遍性に心動かされた芸術家のことを人は科学者と呼ぶのである。また、そこかしこと咲き乱れる桜の花、そのどれもが同じようであるのに、今、この一瞬、はらりと散り行くその一枚が背負う固有の宿命に己の命を重ねんとする科学者のことを、人は芸術家と呼ぶのである。普遍性と固有性、そのどちらに情緒を突き動かされるのか、あるいは両方ということもあろうが、それは、客観ではなく主観の問題である。

また、科学は再現性に、芸術は一回性に重きを置くということも、それぞれを客観と主観の領野へと連れ去りがちだ。もちろん科学に於いても、この世が決定論的な法則に支配されているとしても、なおそこには再現の不可能な事象が満ちあふれているというカオスの発見を経て、再現性を超えた方法論へとその足を勧めている、が、今回そのことにあまり言及を深めるのは野暮というものだろう。科学の再現性、芸術の一回性という性質は、むしろ鑑賞の立場に身をおいて考えるのが良い。というのは、芸術の鑑賞というのは、文字通り創作者の作品を目で観て、耳で聴いて、五感を活かして味わえばよい。従って、基本的には作品は一つあれば十分であり、一回性に重きを置くというよりは、一回作れば十分というのが正しいのかもしれない。ところが、科学の鑑賞というのは、単に出来上がった作品、その結果だけを肌で感じ取るという風ではなく、むしろ、その作品を自分自身の手で再構成するなかで、作品が出来上がっていくプロセスを追体験するという楽しみ方なのである。例えるなら、科学の陶芸品とは、その出来上がりの優雅を楽しむのではなく、作成過程の土の感触を楽しむものなのである。ここに、再現性というものが求められる。


さて、ここまで科学の普遍性と再現性に関して筆を走らせてきたが、だからといって科学が固有性と一回性に関心を持たないかというと、そういうことではない。繰り返すようだが、固有性と普遍性、一回性と再現性というのは、図と地の関係であって、現状の科学に於いては図である固有性と一回性を直接に取り扱うことはできない、しかし、普遍性と再現性が宿る地を丹念に描くことで、図となる一回性と固有性の輪郭が次第に明らかになる。

最後に深澤直人の書いた「デザインの輪郭」の中の言葉を引用しておこう。

例えば、手のひらを描きなさいっていわれたら、ほとんどの人がこの手のひらを描くと思うのですが、その外側の風景を描いても残ったかたちが手のひらになるということを人間はあまり考えない


科学とは、外側の風景(普遍性、再現性)を描くことで、手のひら(固有性、一回性)を浮き上がらせようとする営みなのである。

                

自然の表現としての物理学

  • 2010/10/27(水) 16:59:34

物理学の喜びとは、一体全体、人間に取ってどのようなものであるのか、それを今日は考えてみようと思います。
物理の喜びと聞いて始めに思い浮かべるのは、やはり「知る喜び」、即ち好奇心の充足というものがあり、これは誠にその通りだと思いますが、今日はそれとは別の面から物理学の喜びを考察してみましょう。

アリストテレスは、「知る喜び」と同様に、「似せる喜び」というのもまた、人間に取って本能的であり、根源的な喜びの一つだといいます。古来より人間は、眼前に佇む自然の美しさに心を動かされては、その自然を、時には洞窟の壁に、時にはキャンバスの上にと描き出してきました。ここには、色彩豊かな自然を似せて取る喜び、所謂芸術の喜びというものが存在しています。

物理の喜びという物を考えた時にも、実はこの「似せる喜び」という面が大きいのではないかと思います。物理学では数式を扱うことによって、例えばボールを投げた時に描かれる放物軌道を表現することができますが、このときに物理学者が感じる感動というのは、そのことによって「ボールの軌道が良くわかった」という「知る喜び」よりは、むしろ、数式なるものを使って目の前の自然現象を表現することができたという「似せる喜び」に近いのではないかと思います。

物理学者の感動とは、言わば、数学という新たな筆を得た芸術家の感動に近しいのです。

このようにしてみると、物理学というのは、自然から得た感動を数式や実験装置を用いて表現していくという、血の通った非常に暖かな芸術なのだという気がしてきます。

一方で、物理学では客観性ばかりを重視して、一歩引いた地点から世界を眺めている、そんなものは己の精神を主観的に表現すべき芸術とは認められない、という声もあるかもしれません。しかし、そうではなく、物理学とは客観写生を通じた、己の感動、主観の表現に他ならないのです。

例えば、俳句という芸術を考えてみましょう。高浜虚子は、俳句においては、どこまでも客観写生の技量を磨いていくことが大切であるといいます。思えば俳句では、「美しい」などの主観的な言葉が使われることは、殆どありません。自身の感情は内に籠めて露にはせず、しかしその感情を喚起した花鳥風月を、どこまでも客観的に表現していくのです。そうして客観写生に勤めているうちに、滲みだすようにして主観というものが浸透してくる。俳句とは、このような非常に慎みの深い芸術、言わば寡黙の文学なのです。

俳句が四季に生じる花鳥風月を謡う詩であるならば、物理は宇宙の諸現象を描く絵画だといえます。

千住博のWaterfallでは、物理学の精神と芸術の精神とが最も洗練された形で混じり合っています。これは、名前の通り滝の絵を描いた物で、その迫力は将に圧巻です。千住は、滝を前にして湧き上がった感情を、最短距離で画面に定着させようという思いから、キャンバスを立て掛け、そのキャンバスの上から下に絵の具を、まるで滝のように流すことで、この絵を描いたのだといいます。この滝の絵は、絵の具の滝という自然現象がそのままキャンバスに張り付いた物ですから、これ以上に客観的な絵の描き方はありません。しかしだからこそ、この滝からは、滝を観たときの言葉にならないほどの感動、その滝をこれ以上無いほどに似せて取れた喜び、千住の様々な想いが伝わってきます。

                

グレープフルーツプロジェクト

  • 2010/08/16(月) 03:21:02

物質的な面では満たされているが、精神的な面ではどこか物足りない。現代に蔓延しているこのような閉塞感を打ち破るための新しい波を世の中に打ちだしていくことが、このプロジェクトの目的です。

 オノヨーコの書籍であるグレープフルーツジュースには、「地球の回る音を聴きなさい。」「太陽を見つめなさい。それが四角くなるまで。」などといった刺激的な数多の「命令」が書き記されています。

 第二次世界大戦中、お腹を空かせてしょげている弟を見て、ヨーコは弟と一緒に「おいしい献立を考えるゲーム」をしました。「私は豚汁とミートローフがほしいわ。それから、デザートはショートケーキ」「ぼくは、アイスクリームの方がいいな」「じゃあ、アイスクリームとショートケーキの両方にしましょうよ」弟はだんだんと元気を取り戻し、もう大丈夫だというようにでんぐり返しをしてみせました。ヨーコはこうした架空のメニューをつくることによって勇気づけられたときのことを、今でも時々思い出すといいます。

 現在では、物質的に飢えを感じることはほとんど無い時代となり、このような架空の献立を立てる必要はなくなりました。その一方で、精神的な面では、捉えどころのない飢餓感を感じている人は多い。そういった、習慣的な生活だけでは満たされない人々を励ますための、人生に付け足す「新しい行為のメニュー」として、ヨーコはグレープフルーツを書いたといいます。このメニューに記された魔法のような行為の多くは、しかし、実際には実現の難しい行為です。ヨーコは実現可能性に縛られること無く、人間の精神へと真に響くようなメニューを創出しました。そのようなヨーコの自由な精神を決して忘れることなく、グレープフルーツプロジェクトでは、今すぐに行動にうつしたくなるような、そうしてそれを行った後には、その人の生活自体を根本から変えてしまうような力を持った行為のメニューを、愛する人々へと贈ります。

                

朝の休息

  • 2009/11/17(火) 09:10:33

これからは少しゆったりと朝の時間を楽しもうと思う。

朝、目を覚ますと先ずはカーテンを開けて、しばらくは空を見つめる。
晴れている日は、陽の光に身をおいてそれだけで元気になるし、雨の日は、しっとりと優しい大気を胸いっぱいに吸い込むと、なんだか体が瑞々しくなる。

そのうちに、スピーカーにEvansのピアノ曲なんかを流す。Evansは意識の底に静かに鳴り響くので好きだ。

音楽が静かに敷き詰められたその部屋で、今度は朝食を作り始める。
始めにオーブンに2枚ほどパンを入れる。部屋にはだんだんと小麦の良い香りが充満してくる。

そのたまらない香りに心を弾ませつつも、焼き上がるまでの間に、紅茶を焚くためのお湯をわかし、同時に週末に作っておいた野菜スープを火にかける。

野菜スープには、白菜やネギなどの葉っぱ物が入っていて、こいつらから出た水分が、スープの味わいに深みをだす。ざく切りにした玉ねぎは、スープに甘みを与え、手で裂いたキノコはその身にスープの旨味を染み込ませた最高の具材になる。スープの底には、ほっくりと甘いニンジンやサツマイモ、カボチャが隠れている。

パンが焼き上がる。オーブンを開けると焼きたてのパンの香りがバッと広がってくる。1枚にはたいていバターを塗る。もう一枚はその日の気分によって違うけど、オリーブ油を垂らしてその香りを楽しむこともあれば、はちみつの甘みに舌を包んだり、あるいはマーマレードやジャムの果実を感じても良い。なんたって焼きたてのパンだ、何を塗ってもうまいことに違いはない。

紅茶にはたいていミルクを入れる。入れたての茶葉の甘みと牛乳の甘みが巧く絡まり、もはや甘味料を追加する必要は無い。だけど、たまにはミルクの代わりにトースト用のマーマレードを入れて、ベルガモットティーのような風味を味わっても良いし、ハチミツを入れて草原の甘味を感じるのも良い案だ。

食事が終わって、身支度を整え、学校にでるまでの時間は、ゲーテの文章を読む。心臓を直に掴んで揺すってくるような彼の文章に触れた後では、この日という一日に勢いが出る。

少し早めに家を出たときには、少し回り道をして、自然公園を通り抜けて学校へいく。凛々とした木々や、ため池で身を休める鴨を眺めながらの登校は、心に静けさと優しさをもたらす。

うん、良い朝だ


それではいってきま~す

                

効率性から逃れて

  • 2009/07/06(月) 04:16:42

最近は技術(注)という物が粗雑に消費されている気がする。

盲目的に開発競争が行われた結果とした生まれた技術は、消費者の手に渡ったと思うや否や、直ぐさま次の技術に取って換えられていく。次から次へと生産される技術は、それぞれがしっかり賞味される暇もなく、使い捨てられて行く。

もっと大きく腰を据え、人々の生活という、大きく緩やかな流れによって、ゆっくりと研磨するように育て上げてこそ、本当に豊かな技術というものが創造されるのではないだろうか。


例えば、長年に渡って同じ自転車を愛用していると、ゆっくりとハンドルが自分の手になじんでいき、遂には自分にとってこれ以上ないというほどに調整されたハンドルとなる。

これと同じ様に、技術というものも、多くの人によって愛を持って用いられ、ふんだんの時間を供にしながら成熟していくからこそ、本当に良いものが育つのだとおもう。

製作者同士の競争に急かされる様に、人との繋がりを希薄にして、それだけが浮き上がる様にして出来上がった技術には美しさを感じない。

技術もデザインも、人と自然と生活の中に塗れてこそ、本来の輝きを放つ。


だけどなかなかこれは難しい問題である。

民芸、工芸のように生活という土壌の上で悠久の時間をかけて技術を育てていた昔とは違って、資本主義というレールの上で"効率的に"技術促進するのが今の主流になっている。それはそれで良かったのだけど、こうした加速によって生まれた急流に、もはや人々は足を掬われ、ひっくり返っているのではないだろか。

目的の無い競争にむち打たれて数多くの技術を開発するより、人生にたった1つでいいから、自分が本当に愛し、慈しみ、心を捧ぐことのできる技術を開発してほしいと思う。

様々の面で、効率化は既に多大に成されたのだ。

その効率化によって得た余裕を、そろそろこのような真の創造に費やしてもよいではないだろうか。

我々は"効率化"という呪縛から逃れなければいけない。



(注)ここで技術という言葉を使ったが、これは比喩であり、デザインなど他の言葉を入れても同様である




                


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