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会話と会話

  • 2007/02/07(水) 05:45:27


私は、彼と会話をした

会話をする私と彼に於いて、私は"私"であり、彼は[君]である

しかし其の時、私は私を"彼"にし、彼を[彼]にした

そして其の時、彼は彼を[彼]にし、私を"彼"にした

"彼"は[彼]から生じた記号を受けとった

"彼"の中に"私"はいなく、[彼]の中に[君]はいなかった

生じた言葉は、記号であった

生じた記号は、彼の中を通り過ぎる




私は、彼と会話をした

会話をする私と彼に於いて、私は"私"であり、彼は[君]である

しかし其の時、私は私を"君"にし、彼を[私]にした

そして其の時、彼は彼を[君]にし、私を"私"にした

"私"は"君"であった

[私]は[君]であった

"私"は[私]となった

生じた言葉は二人の身体であった

生じた身体は二人の魂となった

                

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知音

  • 2007/02/03(土) 02:58:28

「知音」って言葉を、今日友達に教えてもらって初めて知った。


知音の語源・由来

知音は、『列子(湯問)』などの故事に由来する。

中国春秋時代、『伯牙(はくが)』という琴の名手がいた。

友人の『鐘子期(しょうしき)』が死に、伯牙は自分の琴の音をよく理解してくれる者がいなくなったと嘆き、琴の弦を切って二度と弾かなかった。

そこから、自分を知ってくれる人や親友を「知音」というようになり、よく知る人の意味から、恋人、女房、知人などにも、「知音」が用いられるようになった。


人は、自分、自分から生じた現象を良く理解してくれる他者がいて、初めて自分として存在し、また自分を発することが出来る。

なるほど、実感として備えていることだけど、こんなに堅実にそれを表してくれる言葉があったなんて。

よいね。





しかし、この知音の語源の話は結構、本質が捉えられている気がする。


自分の琴の音をよく理解してくれる者がいなくなったと嘆き、琴の弦を切って二度と弾かなかった


外部との影響が断たれたときに、その場に残る物は何なんだろう?

琴を理解してくれる外部が無くなり、琴を引く事を辞めた

手足を動かしても周りに触れるものがなければ、手足を動かすことをやめるだろうか

声を出しても反響するものがなければ声をだすことをやめるだろうか

目を見開いても見える物がなければ目を瞑るだろうか


全てに対して作用しうるものがなければ、そこに何が残るだろう

その時、身体には意味はあるのか

身体に意味がなければ、残るのは心だけになる

だけど心だけ残って、本当にそこには 心 は実在するのか

心だけを抽出したとき、それは果たして無に等しいんじゃないだろうか



そんな疑問に対して、一つの解を投げかけている

                

アフォーダンスをひっくり返すんだ

  • 2007/02/03(土) 02:58:27

BraitenbergVehicleを作っていて感じた事。


Vehicleを通じて身体性認知科学に於ける多大に可能性に心が揺り動かされた。

同時に、このVehicle達は、なるほど確かに知能とも見えるものを持っているが、それはどれも生死に直結した、言わば本能と言えるべき物に過ぎないとも感じた。


このVehicle達は、十分な身体性を備えてこの世に生まれいでたならば、きっと虫や動物達と同じぐらいの知能は有するだろうという思いはあった。

だけど、こいつ達は人間と同じ様に、文化や文明を創り出すほどの知能を備えることが出来るだろうか?僕が作ったVehicle達で言えば明らかに答えはNOだ。あの子達は、生きるために必要なことは容赦なく習得して行くだろうが、人間のように歌を歌ったり、絵画を創作したりすることはないだろう(たとえ身体的にその能力を備えていたとしても)。


人間とVehicleとの間にある差は何なのか?


人間は生きるという生死的問題に注がなくてはならない力がほんの少しで良いから、その余力を文化の形成に回すことが出来たのか?

それもあるかも知れないが、それだけではない気がする。というより、それはあまり本質的ではないように思える。


そんな中、友達から電話が来て、「これを読め!」と池上高志さんの論文が送られて来た。

もやもやした頭の中身をスパッと切り裂いて、バシッと再構築してくれるような文章だった。


Vehicleは、環境のアフォーダンスをセンサーとモーターの連携構造に写し取ることで、その進化とした。

だけど、生命の本質はそれだけじゃないんだ、最適化を図るだけじゃなくて、そこからずれることにも生命は力を注いでいる。


アフォーダンスをひっくり返す


この言葉になんだか一筋の光明が見えた気がした。


※なんだか、あんまり引用したり内容を書いていいのか良くわかんないので、あんま書いてません

                

Braitenberg Vehicles

  • 2007/02/02(金) 01:51:57

BraitenbergVehiclesとは、神経科学者であるBraitenbergによって考えられたエージェント群で、簡単なセンサーを通じて外界から刺激を受け、それに反応して行動する。

複雑な世界と自己が身体を通して相互作用して行く上でどのように知能が創発されるかに関して非常に興味深い示唆を与えてくれる。

その根底には、知能を考える上で、脳だけを捉えるのでは不十分で、身体と脳、環境の三体を考えて初めて意味があるという思想がある。

(日本でも人工知能という名の第五世代コンピューターを作ろうという試みがあったが、当時は脳だけを対象に扱っていて挫折を味わった)


今回、学科のプロジェクトでかなり自由度の高い課題が出たので、BraitenbergVehiclesを自分で作ってみる事にした。

とは言っても、実機で作った訳ではなく、コンピューターの中に仮想環境を用意し、その中で、身体を備えたVehicleを動かすシミュレートという形を取った。

そこで創発される知能は言わば写像された世界に於ける知能であり、こちらの世界とは異なる物ではあるが、思考実験としての本質は備わっている。


f:id:emsh:20070203012718p:image


%環境では摩擦、空気抵抗、衝突などの物理特性が盛り込まれている

%VehicleはEye、Touch、ColorSensorを備えていて、そこから受け取った刺激がNeuralNetworkを通じて動力に伝わる

%NeuralNetworkが遺伝アルゴリズムを通じて進化を続ける

%赤キノコで燃料を得る

%緑キノコで燃料が減る

%何もしていなくても燃料が減る



始めはVehicle達は非常に幼稚な動きしかしなかったが、学習を進めるに連れ、知的な動きを見せる様になって行った。(緑を避け、赤だけを食べるとか)


非常に面白いのは、育てる環境によって、例えばキノコへの対応が変わってきたことだ。

例えば緑キノコを食べた時の燃料の減り具合が小さい時は、別にそこまで緑キノコを気にしていないが、燃料の減り具合を大きくすると、大げさに思えるほど緑キノコを避けるようになった。

これが意味するのは、それぞれの環境の中でVehicleが、その環境の中のObjectに対して自分自身で意味付けをして行き、関わり方を学んでいったってことだ。

環境に立脚したロボットの可能性に、喜びを隠せなかった。


とまあ、こうしてVehicleは知能を得ることに成功した訳だが、この知能ってのは一般に考えられている知能とは一線を画す所がある。

それは、冒頭でも述べたが、Vehicleが身体を通じて環境と相互作用する中で生まれた物だと言う点で、この知能は所在が"相互作用する中"という非常に曖昧な場所にある点だ。



それは、身体性認知科学という分野でおおいに研究されていることで、特に新しいことでもない。

今回のプロジェクトで自分がやったことは、自分でそれを作ってみることで、知識を実感に変えようってことだったと思う。

非常に興奮に溢れた3週間だった。

                


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