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科学が解き明かさんとするものは

  • 2011/07/25(月) 02:29:03

僕は何のために科学をやっているのか。

何を知るために科学をやっているのか。

実を言うと、僕は、自分のことを知るために科学をやっている。

自分が研究したい対象というのは、始めから決まっている訳ではないし、もし研究対象を決めたとしても、そのとき思い描いたとおりに研究が進んでいく訳ではない。

科学という営みは、研究するという行為を通して初めてつかむことができる、自分だけの実感を、なんとかしてたぐり寄せていく行為である。

今、不思議に思っていることがある。そしてそれを研究する。色々と調べているうちに、新たな疑問が生じてくる。そこで研究の方向を改める。その都度、自分がそのときに不思議に思っていることを見つめ直す。そして新たな一歩を踏み出す。

そうしているうちに、紆余曲折しつつも、研究の足跡が一歩一歩と増えていく。ふとした時に後ろを振り返ってみる。すると、自分の足跡が描いた軌跡が、自分が本当に知りたいと思っていたものを指し示してくれている。そうか、俺はこんなことを知りたかったのか、と淡いため息がでる。

人は、自分が知りたいことが何か、それさえも分らないほどに、自分のことを知らない。科学を続けていると、そのときに辿った足跡が、まるで鏡のようにして、自分の知りたかったことを照らし出してくれる。こうして僕は、科学という営みを通じて、少しだけ自分のことを知ることができるんだ。

                

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科学文化の舞台建設

  • 2010/11/04(木) 00:43:29

科学者は、しばしば「その研究は何の役にたつのですか」という質問を受けるが、それに対して「その研究はどう面白いのですか」という質問を受けることはほとんど無い。

一方で、芸術家は「その絵のどこが面白いの」と問われることはあっても、「その絵は何の役に立つの」と問われることは、それこそ皆無に等しいと言ってよいだろう。

つまり社会的には、科学は技術として、芸術は文化としてその地位を確立しているのだ。

その反面で、科学者の中でも少なからぬ人々は、技術的な営みではなく、文化的な営みとして、科学の道を歩んでいる(※1)。個人にとっての科学は、このように文化としての側面が大きいのだと思うけれど、社会の中では、科学は何かの役に立つべき技術として認知されている。科学はなまじ役に立つので、なかなか技術の道を抜け出せずにいるんだろう。個人にとっては科学は文化、社会にとっては科学は技術という、このねじれが解消していくことが、文化としての科学の土壌を肥やしていく第一歩なのは間違いないし、このことは更に、真に豊かな科学技術の創成へも繋がるものだとおもう。なぜなら、豊かな科学技術とは、豊かな科学文化の実りを調理することで得られることがしばしばだからだ。

桃の木は、誰かの役に立とうとしてその実をつけるのではない。だけれども、人々はその桃を食べることができ、役立てることができる。同じように、文化人としての科学者が育てた科学の実を、技術者としての科学者が調理し、役立ててくれる。桃の実でも、科学の実でも、問題は"役立つ"かどうかではなく、"役立てる"かどうかなのである。役立てるためには、先ずは兎も角、実が成らなければどうしようもない。そのためには、土壌を肥やしておく必要があるのだ。

桃の木と科学文化の人々を同列に捉えたが、ここには一つ重大な差がある。それは、桃の木は自分で土壌を肥やすことはできないが、科学文化の人々は自分たちで土壌を作っていくことができるし、そうすべきだということだ。

このことを話すのに、先に絵画の歴史というものを振り返りたい。始めに、芸術は文化として認められていると書いたが、では例えば、画家の活動が当初から文化的活動として認められていたかというとそうではないのである。
元々の画家の活動とは、技術的な活動であった。
このことは岡本太郎の今日の芸術に詳しいのでそちらを参照して頂ければと思うが、以下に簡単に記す。

意外かもしれないが、絵画が芸術になったのは、今から100年ぐらい前のことで、まだその程度から立っていないのだという。では芸術以前の絵描きは何をしていたのかというと、貴族の注文に応じて、王様の顔を端正に描きあげたりするのが仕事であった。これは言わば、綺麗なお見合い写真を撮る写真家としての仕事のようなもので、そこに求められるのは文化の精神ではなく、どれだけ綺麗に描いてくれるかという技術である。このころには、画家は貴族のお抱えとなって仕事をしていた。

ところが、フランス革命の結果、貴族階級は社会的な地位を失い、お得意様の居なくなった画家は、明日のパンの心配をしなくてはならぬ状況に追いやられることになった。そこに、資本主義の中で富を得て権力を握り始めたブルジョアジーが、画家にとっての新たなる顧客となっていった訳である。しかし、貴族相手に絵を描くのと、ブルジョアジー相手に絵を描くのとでは、絵の描きようが全くと言っていいほど異なるのである。貴族との直接の関わりの下では、その貴族にあわせて、貴族の気に入るような絵を描いていれば良かった訳だ。一方でブルジョアジーに絵を描く時には、誰か特定の個人のために絵を描くのではない。どこかで開かれた展覧会に絵を飾り、そこで不特定多数の人々に鑑賞される。どのような場所に飾られ、どのような人に見られるか分からない中で、それでも絵を描かなければいけないという状況に追いやられたのである。これで、画家はすごく苦しんだ。少し岡本太郎の文章を引用しよう。

まず、だれのため描くのか、したがって何を描いたらいいのかー、絵描きは苦しみます。描かなければならない真の絵とはなんだろう。いったい絵画とはなんぞや、という問題になった。そういうことを自分の責任において、とことんまでつっこみ、社会、人類に対して、これだという一つの答えを出さなければ絵が描けない。 -略- この苦しみ、この虚無をのりこえて、はじめて、絵画は芸術になったのです。



桃の木の話から転じて少し長くなってしまったが、つまりは、絵画というものも始めは文化としての土壌を持っておらず、ではその土壌を肥やしていったのは誰かというと、他ならぬ画家自身なのである。だとすれば、文化を志す科学者もこれを見習い、自らの手で、この社会に科学という文化を培っていかなければいけない。

文化としての科学をやりたい人々が、いつまでも「これは一応こういう風に役に立つんです」と言って、技術としての科学の土台の上で活動を続けていくことはできない。日本には、そういったねじれた科学を支えるだけの余裕というのはものないのだ。文化人としての科学者は、まずは自分たちが活動すべき舞台の建設から始めなければいけない。

科学は私的な営みであって、そのようなことは我々科学者の役目ではないと考える方もいられるかもしれない。しかしそうではないと思う。「人に見せたくなるのが芸術」と言ったのが誰かは忘れてしまったが、それに呼応して僕はこう言ってみよう、「人に教えたくなるのが科学」なのだと

芸術を「紅葉の葉っぱ、綺麗に描けたよ、見てみて」というコミュニケーションだとすると、科学も「羽根と鉄球同時に落ちるよ、すごくない?」というコミュニケーションなのだ。このコミュニケーション無くしてはなかなか科学も芸術も楽しめはしない。一歩一歩、文化としての科学を踊れる舞台を建設していかないといけない。


(※1)例えば、物理学では独楽の運動に関する研究なども成されていた。これは当然、今よりも高性能の独楽を作ろうとか独楽を回して電力発電しようとかいった技術的な志を元にした研究ではない。そうではなく、子供の頃によく遊び、慣れ親しんだ独楽だけど、こうやって斜めになっても倒れずに回り続けるのはどういうことなんだろう、そういった好奇心に突き動かされ、それが解明した時には心が踊り、そうしてその感動を誰かにも伝えようと論文に記していく、そういった文化的な営みなのだ。

                

物理における抽象と捨象

  • 2010/11/04(木) 00:42:51

りんごの外見をそのままに描写していく形式の絵画を写実画と呼ぶならば、りんごの内面から最も印象的な一面を抜き出して画面に表現していく絵画、例えばりんごの深紅に本質を見出し、画面をどこまでも紅く染めあげていくような表現のことを抽象画と呼ぶ。りんごを描くという時に、具体物そのものを描くのではなく、自分の中でりんごというものを消化して、自分にとってのりんごとは何かを抜き出し、それを描いていくのが抽象画というものである。

物理学というものを絵画に例えてみるならば、それは自然の表層をあるがままに描く写実画よりは、自然に対して切り込みを入れてその深層の一面を抜き出してくる抽象画に近い。

例えば、ガリレオ・ガリレイが「物体の落下速度は、その物体の重さよらず一定である」という事を述べるために、ピサの斜塔から重さのことなる2物体を落下させて、それが同時に地面に着くことを示したという逸話がある。しかし、空気抵抗があることを考えれば、例えば鉄球と羽は同時には落ちっこないんだから、ガリレオの言うことは事実に反している。写実画的な立場から言えば、この物体落下の理論は、あるがままの落下現象から空気抵抗という存在を捨象したため事実と反しているのだということになる。しかし、そうではない。むしろ、ここでは抽象画の立場に立つべきで、ガリレオはあるがままの落下現象の中から、地球と物体との間の引力の働きのみを抜き出してきたのである。落下現象には地球の引力、空気の抵抗はもちろん、月の引力や、あるいは地球の裏側で蝶が羽ばたいた際のそよめきなど、様々な働きが関与している。それらの中から、地球の引力以外の影響を捨象したのではなく、地球の引力の影響のみを抽象してきたのである。

捨象と抽象を単なる行為としてみるならば、それは同一なる行為の異なる2側面に過ぎない。しかしそこに宿る意思を考えたとき、捨象と抽象では随分と趣が異なる。物理とはあるがままの世界の中から主体的に美を切り出していく営みである。その切り口を如何に選ぶか、ここには捨象ではなく抽象の意思が宿る。

僕は物理学がどれだけ進歩しても、この世の中の1%も分かりやしないと考えている。これだけ豊かな自然の中から、ひとつのキャンバスに表現できることなんて、ほんの断片でしかありえない。だとしたら、この自然の潤沢な実りを1つずつ捨て、削ぎ落としていくと考えるよりは、自然の中に埋もれている、汲めども尽きぬ美の欠片を1つ1つ抽き出してくると思うほうが、余程この大自然を享受できるというものだ。


話は逸れるようだが、物理では異なるモチーフを抽象した結果、同じ絵が描かれたりするのが面白いところだ。例えば木の葉の葉脈とリアス式海岸、まるで関係ないように思える両者からは、フラクタルという同一の概念が抽象されてくる。フラクタルに関してはここでは詳しく述べないが、こうして抽き出された概念を軸にして、再び自然へと目をやると、"もの"と"もの"の間の距離感がそれまで全く違って見えてくるから面白い。木の葉と海岸線、以前であれば全く並べて考えることなどなかった2つの"もの"が、フラクタルという概念を通して観ると、まるでキャベツとレタスかのように近しい"もの"に見えてくるのだ。人はオギャーと産声をあげたときには、まだこの世の中の"もの"に触れたこともなく、当然、自分にとってそれぞれの"もの"がどういう意味を持っているのかなんて分かりはしない。そのころには、レタスとキャベツの差なんて分からない、言わばレタスとキャベツの距離は0だと思っているかもしれない。しかし、レタスやキャベツを何度か食べるうちに、レタスはシャキシャキしていてキャベツはザクザクしているから、まあレタスとキャベツの間にはちょっと距離があるかな、なんていう風に、生活を経るにつれてだんだんと自分にとっての"もの"と"もの"の間の距離が定まってくる。そうして十数年も立つと、だいたい自分の中での"もの"との距離感というのは固定され、それにつれて、その固定された世界観に退屈を覚えてくる。そこに来て、突然、木の葉とリアス式海岸なんて、今までの人生では距離が遠すぎて並べてさえ見たことがなかったものが、まるで隣どおしに居るかのような距離感で現れてくるのだ。これまでに培い、いつしか凝結しかけていた世界観が、にわかに溶きほぐされ、世界が変遷変遷しはじめる。そうなると、まるで子供の頃に戻ったかのような気持ちで、この世界に遊び、この世界に踊ることができる。

なんだか本当に話がそれてしまったので、これについてはまた別記事で書こう。

                

科学と芸術に於ける主観と客観

  • 2010/11/01(月) 17:34:56

科学が客観的な営みであるのに対して、芸術は主観的な営みであるというのが世に広く連なる通念であると思うが、客観と主観の対立軸で捉えるよりは、むしろ普遍性と固有性、再現性と一回性の軸で捉えていった方が両者の本質を捉えられるのではないかと思う。

科学の営みも、芸術の営みも、大雑把なことを言えば
(1)表現すべき対象の選択 
(2)それを表現する手段の選択 
(3)表現の遂行
の3段階に分けられる。このうち、(1)表現すべき対象の選択と(2)表現手段の選択には科学者、芸術家の主観がおおいに現れ、(3)表現の遂行に関しては、客観写生を心がけるのが良いのは、以前に「自身の感情は内に籠めて露にはせず、しかしその感情を喚起した花鳥風月を、どこまでも客観的に表現していくのが俳句である」と書いたとおりである。この意味で言うと、科学も芸術も、程度の差こそあれ、ある段階では主観的であり、またある段階では客観的である。

それでは何故、科学は客観の、芸術は主観の業と呼ばれるのかと言えば、表現対象の選択におよんで、科学では普遍性を備えた事象を、芸術では固有性を備えた現象を対象にすることが多く、その普遍性が客観性へと、固有性が主観性へと結びつきやすいことが原因だと思われる。しかし、実際には、普遍性と固有性とは言わばネガとポジのような関係であり、そのどちらに惹かれようとも、それは等しく主観的な問題であると言える。日々流転しゆく森羅万象、そのどれもが各々独自の成り立ちによって、全く無関係でいることも有り得るのに、しかしあるところで起きた現象が、また他のあるところで生ずる、そこには厳然たる普遍性が影を潜めており、その普遍性に心動かされた芸術家のことを人は科学者と呼ぶのである。また、そこかしこと咲き乱れる桜の花、そのどれもが同じようであるのに、今、この一瞬、はらりと散り行くその一枚が背負う固有の宿命に己の命を重ねんとする科学者のことを、人は芸術家と呼ぶのである。普遍性と固有性、そのどちらに情緒を突き動かされるのか、あるいは両方ということもあろうが、それは、客観ではなく主観の問題である。

また、科学は再現性に、芸術は一回性に重きを置くということも、それぞれを客観と主観の領野へと連れ去りがちだ。もちろん科学に於いても、この世が決定論的な法則に支配されているとしても、なおそこには再現の不可能な事象が満ちあふれているというカオスの発見を経て、再現性を超えた方法論へとその足を勧めている、が、今回そのことにあまり言及を深めるのは野暮というものだろう。科学の再現性、芸術の一回性という性質は、むしろ鑑賞の立場に身をおいて考えるのが良い。というのは、芸術の鑑賞というのは、文字通り創作者の作品を目で観て、耳で聴いて、五感を活かして味わえばよい。従って、基本的には作品は一つあれば十分であり、一回性に重きを置くというよりは、一回作れば十分というのが正しいのかもしれない。ところが、科学の鑑賞というのは、単に出来上がった作品、その結果だけを肌で感じ取るという風ではなく、むしろ、その作品を自分自身の手で再構成するなかで、作品が出来上がっていくプロセスを追体験するという楽しみ方なのである。例えるなら、科学の陶芸品とは、その出来上がりの優雅を楽しむのではなく、作成過程の土の感触を楽しむものなのである。ここに、再現性というものが求められる。


さて、ここまで科学の普遍性と再現性に関して筆を走らせてきたが、だからといって科学が固有性と一回性に関心を持たないかというと、そういうことではない。繰り返すようだが、固有性と普遍性、一回性と再現性というのは、図と地の関係であって、現状の科学に於いては図である固有性と一回性を直接に取り扱うことはできない、しかし、普遍性と再現性が宿る地を丹念に描くことで、図となる一回性と固有性の輪郭が次第に明らかになる。

最後に深澤直人の書いた「デザインの輪郭」の中の言葉を引用しておこう。

例えば、手のひらを描きなさいっていわれたら、ほとんどの人がこの手のひらを描くと思うのですが、その外側の風景を描いても残ったかたちが手のひらになるということを人間はあまり考えない


科学とは、外側の風景(普遍性、再現性)を描くことで、手のひら(固有性、一回性)を浮き上がらせようとする営みなのである。

                

自然の表現としての物理学

  • 2010/10/27(水) 16:59:34

物理学の喜びとは、一体全体、人間に取ってどのようなものであるのか、それを今日は考えてみようと思います。
物理の喜びと聞いて始めに思い浮かべるのは、やはり「知る喜び」、即ち好奇心の充足というものがあり、これは誠にその通りだと思いますが、今日はそれとは別の面から物理学の喜びを考察してみましょう。

アリストテレスは、「知る喜び」と同様に、「似せる喜び」というのもまた、人間に取って本能的であり、根源的な喜びの一つだといいます。古来より人間は、眼前に佇む自然の美しさに心を動かされては、その自然を、時には洞窟の壁に、時にはキャンバスの上にと描き出してきました。ここには、色彩豊かな自然を似せて取る喜び、所謂芸術の喜びというものが存在しています。

物理の喜びという物を考えた時にも、実はこの「似せる喜び」という面が大きいのではないかと思います。物理学では数式を扱うことによって、例えばボールを投げた時に描かれる放物軌道を表現することができますが、このときに物理学者が感じる感動というのは、そのことによって「ボールの軌道が良くわかった」という「知る喜び」よりは、むしろ、数式なるものを使って目の前の自然現象を表現することができたという「似せる喜び」に近いのではないかと思います。

物理学者の感動とは、言わば、数学という新たな筆を得た芸術家の感動に近しいのです。

このようにしてみると、物理学というのは、自然から得た感動を数式や実験装置を用いて表現していくという、血の通った非常に暖かな芸術なのだという気がしてきます。

一方で、物理学では客観性ばかりを重視して、一歩引いた地点から世界を眺めている、そんなものは己の精神を主観的に表現すべき芸術とは認められない、という声もあるかもしれません。しかし、そうではなく、物理学とは客観写生を通じた、己の感動、主観の表現に他ならないのです。

例えば、俳句という芸術を考えてみましょう。高浜虚子は、俳句においては、どこまでも客観写生の技量を磨いていくことが大切であるといいます。思えば俳句では、「美しい」などの主観的な言葉が使われることは、殆どありません。自身の感情は内に籠めて露にはせず、しかしその感情を喚起した花鳥風月を、どこまでも客観的に表現していくのです。そうして客観写生に勤めているうちに、滲みだすようにして主観というものが浸透してくる。俳句とは、このような非常に慎みの深い芸術、言わば寡黙の文学なのです。

俳句が四季に生じる花鳥風月を謡う詩であるならば、物理は宇宙の諸現象を描く絵画だといえます。

千住博のWaterfallでは、物理学の精神と芸術の精神とが最も洗練された形で混じり合っています。これは、名前の通り滝の絵を描いた物で、その迫力は将に圧巻です。千住は、滝を前にして湧き上がった感情を、最短距離で画面に定着させようという思いから、キャンバスを立て掛け、そのキャンバスの上から下に絵の具を、まるで滝のように流すことで、この絵を描いたのだといいます。この滝の絵は、絵の具の滝という自然現象がそのままキャンバスに張り付いた物ですから、これ以上に客観的な絵の描き方はありません。しかしだからこそ、この滝からは、滝を観たときの言葉にならないほどの感動、その滝をこれ以上無いほどに似せて取れた喜び、千住の様々な想いが伝わってきます。

                


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